2013-05-02
4月28日日曜日朝のNHK「サキどり↑」によると、最近の洒落た日本酒がフランスで好評らしいですね。以前のまったり感のつよいあま味の清酒からすこし脱皮したのかな^^?
クールで切れ味のよい風味のなかにさらに染み入るような味わい深さがひろがる日本酒。冷酒が登場したころから日本酒のイメージが変わりはじめましたよね。ふだんは一滴も酒精を体内に入れてないので、ちょっと嗜みたくなったな・・・^^: でもビンボーなんで脳内味覚センターで味の記憶をブレンドして味わおっと(笑;)
「日曜美術館」。きょうは「神々を彩る美」か・・・。居並ぶつつましやかな「神像」。紹介されている神像たちは、平安当時の身近な人物像に取材した偶像の面々ですね。仏像と違って決まったフォルムはないそうなので、もちろん異形であってもいいし、人物を象ったタイプも、表情豊かに喜怒哀楽を表していてよいそうです。
人としてはじめて神になった菅原道真。神になった理由は、道真の死後つぎつぎと襲う藤原一族の不幸の原因が、失脚に追いこみ憤死した道真の怨念と感じた(陰陽師がそう判定した^^?)ことから、その怒りを鎮めるために「神」として敬い祀った、というわけですか。なるほど。
人智を超えた荒ぶる力を放つ超自然的な存在を認め、その存在に恭順し、いわば懐に飛びこむことで怒りを鎮め、あるいは、前もってかわす。たんなるアニミズム的な八百万の神々のイメージではない、言い換えれば、多様共生そのものの自然界の秘めもつ奥深さを偶像化しただけではくくれない、この国のどこまでも曖昧で茫漠とした「神」のイメージが、むしろそのようなつかみ所のない、一種の“もどかしさ”を誘うそのものが、この国の「神」の実体をなすものであると、ぼんやりとながら感じることができた・・・ような気がしました^^
登場したお三方の、寡黙ななかにも、(MCとゲストの立場上)無理してことばにしようとしているひたむきな姿勢もまた、印象的でした^^ 日本の神は概念化すればするほど、遠くに隠れてしまいますね。なんという奥ゆかしさ。「幽玄」もここらあたりの神の性(さが)に由来するのかな。
もちろんその性は、この国の自然のいたる処に、視聴覚の結ぶ花の実として、同時にまた、香り漂う“神の気配”として、津々浦々の山海や人里に充溢しているけれども^^ 味覚としては、さきほどの日本酒もまさに神の性から滔々と流れでる、名実ともに「美酒」ですね。ほかに例をあげれば、それこそきりがないですが、個人的な好みとしては、能や生花や日本刀。
ただ奥ゆかしさはこの国の神の一面にすぎず、神像ひとつとってもオツに澄ましているだけでなく、やけに怒っていたり、とっても愉快な庶民顔だったりもする。たぶん展示をはばかられるようなエロチックな神像もあるにちがいない。というのも、郷里にあるわりと大きな神社で数十年ぶりの大祭(神々の蔵出し?)があり、普段はお目にかかれない神々の像のなかに、男女それぞれの性的シンボルをリアルにかたどった神像?を路傍から観覧した経験があるので、そう思います^^:
そのちょっとグロい神の臓物が行列に姿を見せたとき沿道ではドッと笑い声が上がり、私も釣られて笑ったけれど、内心は神社のイメージが変わるほどの衝撃でした^^; でもまあ考えてみれば、天照大神の時代から神々はおおらかだったなあと、あとで納得したことでした(笑)
というわけで、この国の神はさまざまな顔を同時に持っていて、どれが真の姿と決めつけることはできないので、けっきょく、日本の「神」概念に迫れば迫るほど、わからなくなってしまいます。つまり、そういう意味でも人智を超えている(^^; それこそまさに、この国の「神」の真髄ですね。
つまり、この国の神の探索は、明快にことばの鏡に写し取れないまま、いつの間にか出発点の風景にもどってしまう。まるで、メビウスの帯やクラインの壷のように。ただ、裏返しの位置にいわば“倒立”して立っていることに気づくのはむずかしい。なぜかまわりの風景まで、私と一緒に倒立しているから。
あたかも色即是空にして空即是色であるかのような、この国の神(の観念)。それは、ことばで世界解釈をしたい(≒ことばによる意味のタイル絵を描くことでもって、この世に棲むことの安心立命を得たい)と欲する者としては――いやそれだからなおさら――折々の場所場所で感じるそれとない「気配」でしか出遭えないのかもしれない。
ことばとふかく関わっておられるMCのお二人が、この国の神の偶像、神像たちを前にして、ことばすくなになるのも、日本の神々への畏敬というよりも(いや失礼、畏敬もさることながら^^)、
“絶対に確かなつかみ所を与えない神(々)”と対面して当惑している様を、如実に物語っている、と私には観えました。もちろん私自身がいちばん、素朴でノーマルな人型神像に当惑しているのですが(笑;) ・・・この国の神(々)の変幻自在な様にはまったく驚かされます^^
それに比べると、アブラハムの宗教 のなんとわかりやすいことか。神なる存在は唯一絶対のもので、人格まで備えている(脳内言語中枢を介してマインド全体に浸透する関わり方が主軸であるから。ちなみに、契約思想もこれに由来する)から、じつに神としてわかりやすいし、その存在が明快なであうっるぶん、頼りがいのある存在でもありますね。ただし、言いつけにそむいたらとっても怖そうだけど^^;
うーんこう考えると、「神」という超越的な「観念」は、メタ次元的な統治システムとして、私たちの頭上での存在を要請されているかな。やっぱりこの世界は奥がふかい・・・比較宗教論ふうなアプローチはシゴトにも不可決だし、もっと勉強しなければ^^;
さて、ここで話しを流れをやや変えて、今度はこちらのテレビ番組 。
安部礼司くんのナウでビビッドな世界とは真逆^^?の世界ですが、古典芸能のなかでも燻し銀の光彩を放ちつづける能。
演目は『求塚』(もとめづか)。うーむ、むむむ・・・、うーむ。。。
正直言って、ほかのチャンネルが興味なかったので、とりあえずEテレに舞い降りて、
(ほう能か・・・。元旦以来だな。ちょっとだけ正月気分を味わってみるか)
と、見るともなく目をやっていたら、なんと奇妙なことに、すーっと画面に吸い寄せられ、ときおり<dデータ>ボタンを押して番組情報を読み取りながら、とうとう最後まで観てしまました。
自分でも意外な反応でしたが、この時はじめて「能」(紹介動画1 ・2 ・3 )の秘めもつ「おもしろさ」に触れた気がしました。たぶん、この歳にしてやっとそのおもしろさに気づいた。いや、この歳になって^^;
そこで、三島さんの『近代能楽集』が頭をよぎったので、さっそく蔵書コンテナを開扉して本を取りだし、中身に目を走らせましたが、残念。『邯鄲』『葵上』『道成寺』『熊野』など、どれも有名な演目のようだけれど、オリジナルの舞を観ていない。まずは伝統の舞から鑑賞しなくては。
で、どうして『求塚』にこれほど惹かれたのだろう、と内省したところ、どうやら、この日の朝観た「日曜美術館」の『神々を彩る美』に関係しているようです。詳しくは、きのうのブログ記事に縷々書いていますが、その想念がまだ頭の片隅に残っていて、それが、『求塚』の重厚で緊迫した舞と謡に遭遇して一気に再燃し、そこに強烈なほどの、この国の“神の気配”を感じた。感じないではおれなかった。
どうも、そういうことのようです。そして、この“気配”を感受することで、私は、それまでよさの分からなかった、だけれどもどこか気になっていた「能」という芸術を、理会できた気分になりました。勝手な思い込みであろうがなかろうが、そんなことは関係ない。なんだか素直に、ひたひたと嬉しい。それで充分だ・・・。
と感じながら、今朝、まどろみが解けてゆく寝床の中でぼんやり想ったのは、例によってそこはかとない連想だけれども、こんなことばたちの想起でした。
神の気配 社(やしろ) 神楽 『古事記』 『日本的霊性』(鈴木大拙 著) 禅 書道 茶道 侘び寂び 能 花(桜) 山河(この国の) 『風土』(和辻哲郎 著) 富士山 数々の霊山・霊場 神仏習合 日本仏教 これらすべてに宿る気配としての神 神は同時に神々でもある(単複不二)
おかげて、とらえどころのないこの国の神の形象(かたち)が、心(あるいは想い)のスクリーンにわずかですが、見えてきたような気がします。もちろん気配のそのものの形象ですが・・・^^; (きっと、粘菌もびっくり^^;)
そうそう、観世流宗家によれば、能は自ら舞ってこそ、そのおもしろさ(奥深さ)を堪能できるそうです。なるほど、神の気配にひたりきるには、自ら舞うのがベストのようです。(神の)外側からかしわ手で祈るのもいいけれど、舞うことで神の懐にはいる・・・。ちなみに神楽の舞はその古代版かな。
さて、そんなふうに考えると、三連峰をなして聳立するアブラハムの宗教や個(モナド)の縛りからの解放(解脱)をめざす上座部仏教、広大無辺でダイナミックなヒンズー教群にもひけをとらない、日本的気配の神が、まるで鰻を素手でつかむようにことばで捉えることができそうな気になってきます^^
ちなみに、客観的な把捉のむずかしいこの国の神は、その性質ゆえに、この国の自然の防壁である沿岸域まで無理なく容易に、神(々)と一体化した国土としての「神国日本」にまで膨張します。ただその容易さゆえに、政治的イデオロギー以前のものとして、津々浦々に暮らす庶民の生活感覚においてごく自然に感応することが可能でもあります。
ですが、その素朴で庶民的な神への感受性が同時に、ことばのフィルターを通さない〔あるいは通すことを許さない?〕この国の神の有りようのために、やすやすと、時の権力者による統治上の政治的イデオロギーにも援用される、という危うさを秘めてはいますが(※)。
(※)
このイデオロギーの核心は、端的にいえば「天皇制」ですが、これは裏を返せば、すくなくとも極東の弓なりの連投国においては、なんら矛盾しない(無矛盾^^)であることを自ら明示しています。つまり、三島由紀夫さんのいう「文化」それ自体でもあるわけです。なので、政治的イデオロギーにおいては、このことをまず充分に腑に落とした上で、「国体」(=国家としてのアイデンティー。国民体育大会とは別物^^;)を保持する必要があります。
ですが戦前同様、そこらあたりの突き詰め方が、まさにこの国の神の顕現ともいえる“空・気(くうき)”に包まれ流されて、理知的理会(論理的言語を駆使した意味把握または意味付け)が中途半端であるため、その成果による明知によらない、情念的なうねりとなって、おかしな(中長期的に自滅の)方向へと向かいかねない「危うさ」をもっている。
(※はここまで)
いまのアベちゃん(あ、安部礼司ではないですよ^^:)のハッスルぶりもまた、その「危うさ」をよく示しています。
問題は、上述したようなこの国独特の神の特性が、地上の覇者の棲む“国際社会”に理解可能な「神」かどうか。言い換えれば、われらが「国つ神・天つ神」は、ヤーウェでもなくアッラーでもなくイエス・キリストや聖母マリアでもなく、いまはまだ知る人ぞ知るの「ルシファー神」とソリがいいかどうか・・・^^;
ここのところがこの国がこれからさき世界的リーダーシップの一端を担えるかどうかの、いわば試金石になるでしょう。・・・えっと、ちょっと小むずかしかったかなあ。え? あ、なるほどね。ザッツ・ライト! いつもの馬鹿丸出です(爆)
ところで、ここまで書いてきて、先日「へえ・・・」と思ったのは、都知事の猪瀬さんの“舌禍” 。即時抗議ではなく、ちょっと間をおいて会見 した内容は、真意が伝わっていない。文脈からはずれている、といった趣旨の弁明。
この国のぬるめな“空気”のなかでなく、米メディアの充分に間合いをとったクールすぎる評価眼をまえにして、昔なりわいとした辛口ジャーナリストっぽい口舌を“日本空気モード”〔言いたいことわかるよね^^?、なモード〕のまま(あちらさん向けにロジカルな加工をすることなく)ポンと披露したところ、(待ってましたとばかりに・・・?)サクッと足元をすくわれたって感じかな。
この国の首都のトップは「国際感覚がない」と見られてもしかたないな。寡黙で“空気”そのもののこの国の神(々)は、あちらサイドでは異次元のものであり、ゆえに非存在であり理解不能であり、パワーバランスの優越上先方が(山本七平氏のいわゆる「日本教徒」の発する“空気”モードの言外ニュアンスなど)理解する必要もないのは、常識なのに。
ちなみにこの記事 はただのやっかみだろうと思って読み流していたけれど、案外あたっているかもしれない。しかも、あの上紐時にしゃべったらしい。大名気分に酔って脇が甘くなっていたのもうなずける。
【同日追記↓】
えーーー??? うっそおーーーー!!!
と、この記事を読んで思いました^^;
◎ NYタイムズをうまく使った猪瀬都知事 (ブログ「カレイドスコープ」より)
す、すごい読みですね!(^^;)
うーむ、猪瀬氏はただの成り上がり大名ではなかったわけですか・・・^^:
にわかに同意はできませんが、否定もしません。材料がないので。
でも、石原の親分が内諾しているなら、猪瀬さんとしては潔く、「諸般の事情で降ります」なんてことは言えないわけですかね。
IOCの顔に泥を塗ることになるから? ・・・どんなふうに??
「やっぱおります」なんて言わせない(イルミナティカードの^^;)縛りがあるから?
ということは、マドリードもイスタンブールもじつは落選がきまっていて、いまは出来レースのまっ最中だということ?
だったらこないだの来日でも、そしてこれからも、ヘタくそなプレンゼンと形ばかりのおもてなしをすればいいだけなのに。なんかダンディハリマオさんこのこの記事、考えすぎのような・・・?
でも、「日本は、わざわざ地獄の門を叩く危険を冒す必要などないのです」には同感で、個人的には、東京オリンピック開催は興味ないです^^
ちなみにトルコは、映画『アラビアのロレンス』では誠に恐ろしい国として描かれていますが^^;、日本にとってはイスラム圏の貴重な「親日国」。私も、機会があればカッパドキアを訪れたい。(あそこにはほんのりとノスタルジーみたいなものを感じるし・・・初期キリスト教徒の隠れ処だったころの・・・微笑)
あと、トルコのとある町のたたずまいは、どことなく日本の路地裏とにた雰囲気があるそうですね。日本人のルーツの一つは、チベットやブータンを越えて、小アジアまで広がってゆくのかもしれない・・・^^?
ただいまコメントを受けつけておりません。