2013-05-12
5月5日、注文していた能の本のうち、『あらすじで読む名作能50』が届きました。なかなかよい本です。三島さんの『近代能楽集』八編のうち『綾の鼓』以外の七編の原作解説が載っているので、なおさらグッドです。
ただ、届いたこの本。ひとつだけよくない点がありました。それは、やけにタバコ臭いこと。マーケットプレイスの出品物だったので古本なわけですが、見た目が美本なのにこのヤニ臭さはいただけません。むかしよく利用していた薄暗いネットカフェを想い出しました^^;
それにしても、どのページを開けてもつーんと臭ってくる。ひょっとして臭気、タバコではなく、豪華な多色刷り印刷と関係しているのだろうか。まあいいや、そのうち薄れてゆくだろう・・・^^;
で、写真と活字だけでなく、舞と働き(所作)を観、謡と囃子と掛声を聴きたいので、能のDVDをサーチしてみたのですが・・・高いですねえ!^^; プアマンを自認する者としては購入する気力がわきません。そこで前日に引き続きYoutubeをサーチしたところ、断片的なものばかりではありますが、新たにいくつかの鑑賞に堪えうる動画がありました。まずはこれらを愉しみたいと思います^^
で、ですね。じつは驚いたのですが、その動画群のなかに『“Pagoda” kuse』というのがあって、外人さん^^の愛好家の方々が舞っておられるようですが、「ん? これってこないだテレビで観た『求塚』の終わりの方の場面だな。と気づきました。Pagodaは一般に仏塔を意味し、この曲の「塚」とも符合します。
しかもこの演舞、謡を英語でやってのけいる^^;にもかかわらず、それほど違和感を感じないという点でも印象的ですね。それにしても、能楽の世界でもマイナーな曲の『求塚』が、外国の愛好家の演舞で観られるなんて、じつにサプライズです(^^)
ところで、この動画投稿者のリストを見ると、ほかにもいくつか能の動画をアップしてあるようですが、たとえばこれなど は、非常に熱心に取り組んでいらっしゃるけれども、同時に非常に残念なことに、掛声が棒のように直線的であったりただただ飛んでいる(ヤッホー!に聞こえる^^;)ために、どうしても雰囲気に乗ることができません。
もうすこし声に抑揚をつけてしならせ、発声の最後ですっと抜き去る・・・。そこらあたりの、神の息遣いを思わせるようなしなやかで強靭な掛声があれば、日本人の掛声とほとんど変わりないのでは、という印象をもちます。たとえば、能の演舞を簡素化したこちらの舞囃子 はなかなかのものですね。
うーん、能はやはり、深い。私の印象としては、これはやはり、日本の神が気配のなかに在り、気配そのものがこの国の神(の正体)ではないかと思わせてくれるほどの、神の舞、と思えてならないですね。
神の舞なら、古来から神楽 があるわけですが、これは神を畏れ、崇め、鎮める奉納の舞。能は、神だけなく男・女・怨霊・鬼などの燃え上がらせる情念の炎を、火宅(人の世)に咲く夜桜(花)のように凛と幽玄に謡い舞い演じあげる芸能。
前者は神の現前をつよく意識し洗練されたシャーマンのように直接対面する姿勢を保つけれども、後者は情念の物語の裡に婉曲的に神の気配にふれるにとどまる。すわちこれ秘すれば花の極地。・・・ここらあたりの興趣に、もう脳が痙攣てしまうくらいに痺れます^^; この国に、こんなに素晴らしすぎる歌舞劇の至宝があったとは。そしてそれを今ごろになってやっと知ったとは!
私に言わせれば、能は、彼岸にこそ在るリアル・ワールドに身を措いて、その岸辺から、この雑多で乱雑で賑わしい喧騒に満ちた地上世界を、すなわち火宅をじっと凝視する芸術ですね。それは、主人公であるシテ(とその補佐役のツレ)のみが面をつける決まり (付けない演目もある)に表れていると思います。演じ手はもとより観劇する者もまた、そこに在る神の気配に浸ることなしには味わいつくせない歌舞芸術の極北・・・。
ということで、かつて健軍神社で観た薪能のように、能がなぜ、その題材とする物語世界に仏教的諦観を色濃く塗りこめながらも、能楽堂のほかは仏閣ではなく、神社で演じられるのか。その理由にも合点がいきます。
さてさて能との出会いによって、日本教の御神体(≒気配そのもの^^)にまで一気に迫ることができました。おかげでなんだか脳までも活性化したみいで、とっても嬉しいです(^^)v さてこうなると、あとは能(気配の神(々))と真言密教(曼荼羅の世界)を結びつけるだけだな・・・シゴトの一環として^^ ま、これについてはじっくり考えてゆきます^^:
・・・そうそう、能といえば、あの織田信長さんを連想 したりもしますね^^
うーん、ここまでくると、能からもう抜け出られそうにありません(笑;)
「世界中に、これほど形而上的で、これほど濃密な、そうしてこれほど完成された演劇が、ほかにあるだろうか」と、『これならわかる、能の面白さ』のなかで著者の林望さんが感嘆しておられるけれども、「なるほど、やっぱり能はスゴイんだ!」と、誇らしい気持ちになりました。
歌舞劇としての能の題材は多岐にわたり、展開する物語世界は仏教的諦観に彩られているけれども、能はこの国に特有の神の気配(=ほとんど神それ自体)を究極まで追窮し体現した稀有の芸術ですね。そういう意味で、世界に類を見ない。
さて私のシゴトは、この偉大な「能」芸術にどういうふうにコミットメントしたらいいか・・・? 『近代能楽集』の真似事は、能力不足もさることながら独創性信奉上もできないので^^;、章曲と章話の二様の網を広げて能に接近し、これをどう取りこんでゆくか・・・・・・ゆける力があるとして(微笑)
能に関しては、謡本も眺めてみたくなりました。能で語られる日本語があまりに美しいから。林さんが仰るように、世阿弥の謡曲(詞章)はどれも極限まで彫琢されているようですね。ぜひ味読したい。あと、新作能に『空海 』というのがあるようですね。能と曼荼羅に形而上風味の相関を見いだしたいので、参考としていつかこれも観てみたい(できれば派手な演目でないことに期待します^^)。・・・うーむ、とにかく能は、底なしに深く、「凄い」の一言。
能については、新作能 についての興味ぶかい論稿があったので、じっくり精読させてもらっています。1904年から2004年までの100年間(101年間?)に創作された新作能のうち316曲(ほとんどカバーしてあるのかな?)をピックアップし、一覧表で紹介してあります。
◎ 新作能の百年(1) ・(2) 西野春雄 (著) ・・・pdfファイル(どちらもわりと重いです^^:)
題目を見ると、空海・日蓮・親鸞はもちろん鑑真和上やさあにはイエス・キリストまでも登場していて、美人ものではあのクレオパトラさえもエントリーしています。ほかにも、シェークスピアのハムレットやオセロ・マクベスを翻案したものもあるようで、なんというにぎやかな演目の数々!
著者によれば、その大半は表面的な型を踏襲しただけの、あるいは、奇抜ではあるが「能の本質」を捉えそこなった作品で占められているとのこと。
(「能の本質」・・・これを明らかにするのがこの論文の目的だそうですが、それは終わりのほうに結論として書いてあるようで、まだ読了していないので、その内容についてはまだ不知です。じっくり精読して、その「本質」について学びたいと思います^^ ちなみに、「能の本質」についての私の“理会”は、いまのところ、このエントリーの真ん中あたりに書いている「私に言わせれば、能は、(~略~)」と、その補助線となるこのような経緯 によっています^^)
時事・事件ものとしては、原爆や水俣病を扱った作品もあるようで、となると、2011年3月後半以降には、311を扱った新作能がありそうですね。大地震と大津波のもたらした東北太平洋沿岸部の巨大な惨禍。原発過酷事故の際限なく膿出す様々の艱難難辛苦。新作能によるこれらの犠牲者の鎮魂と復興へのたゆまぬ歩みを誓う謡と舞の作劇がすでに二、三曲あることでしょう。ただ、このリストによれば、阪神・淡路大震災に取材した作品は今のところないようです。
(※)エントリータイトル冒頭に「★~」が付いた記事は、この国での「新しい邦づくり」を通奏低音としたメモ書きです。ちなみにここで用いる「邦」は「国」=「国家」よりもずっと小規模の、大字から郡や小規模市ていどのコロニー(地域共同体)と、それら共同体の求める産品・職能等さまざまな補完アイテムを交流するネットワーク(連合体)をイメージしています。
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