ここでちょっと話がずれるけれど、ユダヤ教にニアミスすると、ほぼ反射的に、この国の宗教的心情へと観想が靡いてゆく。
この国の宗教的心情のエッセンスは、いちおうの可視的な神仏の偶像を透過して、比喩的に「空気 」と呼ばれるある種の“気配”そのものを唆す(暗示する)ことにあると思う。言い換えれば、その“気配”こそが真の御神体 であって、だから表彰(偶像化)としては八百万となる。
ということで、まるで空気としか形容できないような“気配”のフィーリングが、いわゆる「日本教」のエッセンスを形づくっているんじゃないのかな^^? で、これに共同体意識が強固に絡むと、内向きの相互信頼の基礎となる「まごころ」が誕生し、やんわりと称揚されることになる。
この「まごころ」は(共同体内の)他者にたいして誠実であることを基調とするけれども、情況に応じて「思いやり」といわれる慈愛の念も発揮する。
共同体外部からの来訪者(客人・お客様)に対しては、この「まごころ」を秘めやかな核(いわば“花”)とした、さりげない(=けっしてひけらかさない)「おもてなし(の心)」でもって内部にいざなうことを、最良の歓迎スタイルとしている。
「おもてなし」は、客人・お客様への心情的な満足感になるべく応えられるよう細かい気配りをめぐらすことを旨とし、この基本的な態度を「心づかい」や「心づくし」と言ったりもする。
その態度は、応分の対価を前提とした接客サービスにおいても、敬意を払った立ち居振る舞いや気づかいの言葉や穏やかなスマイルといった所作に、さりげない「まごころ」のフィーリングを隠し味のようにこめることによって、「外部(異文化圏)」からの来訪者に対しても、おそらくは、独特のホスピタリティを提供することになる。
しかしながら、この「おもてなし」が大きな効果を発揮するのは、いわゆる「共同体」のクローズドな時空間においてである。グローバルに開かれた、個を前面に押しだした、多様な価値観が目まぐるしく入り乱れる世界においては、この種の“日本的に高品位”な応対をしても、“ナーバス(<=思いやりの無理解による)でお人よし(<=まごころの無理解による)なヤツ”という見方をされても、おかしくはない。
日本人が概して海外で“おとなしい”と見られがちなのは、そこらあたりのほとんど宗教的心情に近いような無意識の領野に由来しているので(敬虔な“日本教徒”ほどそう見られるはず^^:)、
従来から台湾あたりで取り組んでいる老舗旅館にとどまらず、先日の大イベントで国際発信をはじめた「おもてなし」についても、そたらあたりのツボを押さえたニュアンスの‘理会’を、発信者自体が充分に頭に入れておく(=体得・感得だけにととまらずあるていどロゴス化しておく)必要があるだろう。
・・・おっと、まるで島崎敏樹先生 のおっしゃるようなことを、似たような文体で書きすさびましたね(苦笑) 知らず知らずのうちに影響を受けているなあ。。。ま、先生には遠く及びませんが。