2015-01-06
そうそう、きょうのBSプレミアム・アーカイブでは春日大社の秘儀の数々が披露されていましたね。非常に興味ぶかいドキュメンタリーでした。なかでも、ナレーションの最初のほうで「神の気配 」ということばも聞くことができ、それを合図に、一気にぐぐっと引きこまれてしまいました(微笑) この番組は2010年に制作されたようで、DVDがアマゾンとかでも販売されているようですね。
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◎ 必見!春日大社 祈りの記録 1月6日 9:00~NHK BSプレミアム(2015Topic) - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」
◎ 春日大社 祈りの記録~神が降り立った森で | ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!
ちなみに、「神」は春日大社所蔵の絵には人形(ひとがた)として描かれているけれども、一般人にはその御尊顔を見せることはできないし、儀式においても、神が御幸される行列ではその周囲を榊の枝葉で厚く囲って御姿を見せることはないとされているのは、以下無手勝流に解釈すれば、たんに神の奥ゆかしさを演出するとか神職団の選ばれし者的性格を際立たせるのことが眼目などではもちろんなく、四季の島日ノ本なる敷島の「神」は、もとより人形(ひとがた)であることもできるが、唯一絶対の人格神に固定し超然と孤高し高みより睥睨するに留まる存在ではなく、同時にわれらが「神」はまた、山水草木・花鳥風月・巷間の門戸軒庇あるいは竈や厠にいたるまで、神の気配と成ってまさに“いまそこ”に偏在する存在でもある。つまりこれこそが八百万の神の真貌であり、その有り様(よう)において、文字どおり「八百万の神々」であるとともに、その無限の態様もまた「神」そのものである。ちなみにそこに、欧米的の個別主義的な(粒粒〔モナド〕を嗜好する意味合いでの)言語上の単複はない」。日本語が単語の単複にナーバスでないのは、ここらあたりに由来するのだろうか…? 話が逸れたが、したがって、絵の中の神の人形はそれを目にすることでその絵の人物像そのものに信仰の焦点を凝り固めてはならず、また、榊に囲まれた中にはなんらかの御神体や「神」の絵姿や神像が収まっていなければならぬわけではなく、視覚的にはがらんどう(空気のみ)の空体であってもなんら差し支えなく、むしろそれが尤も相応しいとすら(私には)思える。
・・・とまあ、とりあえず、そんな妄想を逞しくすることができました。このことにおいて、上述したような「非常に興味深いドキュメンタリー」でありました。
で、春日大社の旅行記事があったので、行ったことがない者としては、わぁーこんな所かあ…と参考までに備忘^^
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◎ 現身日和【うつせみびより】 | 私が見た奈良らしい風景と紅葉写真 <奈良シリーズ第三回>
◎ 現身日和【うつせみびより】 | 春日大社と鹿と奈良の関係が腑に落ちた <奈良シリーズ第四回>
だんだん(^^)
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