2014-01-27
おっと、双頭の鷲^^; でちょびっとスイッチがはいったので、ついでながら妄想を飛ばすと、この世(物質=エネルギー凝集領域)はすべて二極相対構造で成り立っていることの、これもひとつの証左でありますね。電磁気の+と-、性システムの♂と♀、形状における上下・左右・前後・表裏、対象視認システムとしての二眼、現在と過去・現在と未来(過去も未来も現在〔いま・ここという意識〕を母胎として生起する。過去は経験と記憶と記憶の共有として、いわば意識の外在化した体内に幾重にも“折りたたまれ”ており、未来は生命力の発露を意識に投影した“希望”によって、あたかも時間軸の延長線上に独立して外在するかのように意識される)、有と無、有限と無限、有限な線における両端(無限な線に両端はないことはその対比となっている。またこれらは有と無の関係にもある)、あと、生と死、光と影、善と悪といった多分に情緒的な印象把握の領野にいたるまで、無数に二極点があり、つまりそこにはそれぞれ多様な楕円体が形成されている。。。しかも二極点は絶えずその距離を伸縮し、同時に楕円体は表面を微細に波動させながらやむこなく回転している。
ちなみにこの楕円体モデルにおいては、二極点性そのものが存在論的な本質であるから、それらを正・反とみなした弁証論的止揚は、見かけ上は過去と未来が一直線上に在るように見えるのと同様に、本源的な要素ではない。・・・ま、どうでもいいか(笑)
2014-02-15
・・・そういえば、私はいつも異なるものを「結び付け」ようとするクセがあります。物体ではなくて^^;文化的思想的に異種のものがあれば、まずはそれらを結びつけて、その底の部分に共通の意味を探ろうとする。地下水脈または通奏低音のようなものを。するとたいていは、何かがじわっと表に浮かび上がってくる。それをことば(ロゴス)で捕獲する。まあそれなりに・・・(こじつけであれ^^;)
これを弁証法的思考法と考えてもいいけれど、私自身はそうは考えない。必ずしも「揚棄 」しない。むしろ(個人的こだわりによる^^;)「二極点性 」(← 2014-01-27記事の後半部分)を明らかにすることが多い。というか、まあそういう具合に好きに解釈(意味づけ)しているにすぎないかも、、、しれないけれど(笑) ま、ついでに言えば、「揚棄(または止揚)」は、この「二極点性」の一態様として観測されるにとどまる。