まずは、大好きな能の記事から。私はこないだ、能の奥深さに目覚めたばかりですが、自分流の勝手な‘理会’であるにせよ、能の「本質(エッセンス)」を喝破できた(と心底思える心境に至ったことで^^;)、「あーもう思い残すことはないなあ・・・」とまで想うようになりました^^; まあ、個人的には、それほどまでに衝撃的な発見(気づき)でした。
あとは、その本質と思しき“神(神々)の気配”をどこまで自分流儀でロゴス化できるか・・・これはいわば(放射性^^:)希ガスをいきなりガラス固化するようなものですが(笑;)、近くは三島さんの文体に触発されながら、古くは古事記や万葉の言の葉に親しみながら、じわりとにじり寄ってゆきたいと思います。
で、その際のもっとも関心事となるのは、この国の国是ともいえる「和の精神(こころ)」と「集団主義のエトス(気風・習慣)」に対して、能の与える峻烈な「神の気配」とそこに映しだされる渺渺たる「孤」(個ではない。“孤魂”というべきか)の人間像をどのように捉え、結びつけたらよいか。鎌倉時代に勃興した武家文化(武士道の魁≒死による生の超克の兆し)が大きく影響しているのはまちがいない。。。
■ 能のこと↓
◎ 能の歴史の二重構造 (ブログ「心に青雲」より)
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/388612303.html
―― たいへん勉強になりました。なかでも響いたフレーズを(勝手ながら^^;)転載させてください。
(以下「」内は転載)
「能は儀礼と言ったが、もっと正確には、神道に淵源をもつ主として霊魂を鎮める芸能である。源は神道、と言ってもよい。神道は周知のように、日本独自の観念世界を形成してきた。それはあくまで日本人の共同体の観念的伝承性なのであって、個人の信仰ではない」
「能は、それを鑑賞する武将らが、自ら手をかけて殺した御霊の祟りを恐れ、それを鎮めることを目的として、御霊が満足してくれるような音楽付きの劇を猿楽師や能役者に演じさせたものである」
「最初は祟りへの恐怖だったものが、時が経つにつれてその意図が忘れられ、死者に対する眼差しの温かさが把羅鉄抉(はらてつけつ=美点を探し出して用いること)されてヒューマンな中身となっていった」
(転載了)
2014-02-17
◎ 梅若実の偉大性とは (ブログ「心に青雲」より)
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/388879295.html
―― 「能はとりわけ、神を演ずる。神を登場させる。神との交感である。昔は神は心の最高形態であったから、能がその演技を神に捧げる、あるいは亡き英雄に捧げるものであった以上、心も最高形態たる精神のレベルで、神に捧げるレベルで演じるべきものである」とのこと。まったく同感ですね。
世阿弥が芸術性の花を開かせ、初代梅若実 さんが(復興しつつ)確立したとされる至高の芸術「能」に、その神気に充ちた精神的審美の奥深い世界に、文句なしに、言葉も忘れて(どこか脳が痺れるのを感じながら)心酔してしまいます。ほんとうに、この人に後に生まれてよかった(微笑)