2014-05-24
このエントリは、政治・政局・政情を語るときにひょこひょこ顔をだす「右」とか「左」とかのことで、ネットから拾った関係記事たちの備忘集です^^
2014-02-12
■ 「建国記念の日」に関するヒダリ系とミギ系の記事例↓ ~どちらの心情も‘よくわかる気分’の俺って・・・^^?~
◎ 今日は、建国記念の日だそうだが、『建国』っていつのことを指すのか? (ブログ「velvetmorning」より)
◎ 日本人としての矜恃(きょうじ)を示す。 (ブログ「多摩湖畔日誌」より)
2014-02-15
■ 保守・右翼とは?
◎ これまでのまとめ (「WJFプロジェクト」より)
http://wondrousjapanforever.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-a281.html
―― いわゆるこの国の「保守」勢力について、ブログ管理人さんの立ち位置も含めて述べてあるようです。ふむふむ、この人から見た右翼の色分けがしてありますね。社会勉強になります^^: なかでもこちらの記事が参考になりました^^;
↓
◎ インチキ「保守」の見分け方 (同上)
http://wondrousjapanforever.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-fa26.html
―― で、この記事のなかに、左辺の分類がしてあったのをある人が見て、右辺にこんな感想を述べていました。。。ちなみにこの人は私同様この国のただの民草の一人です^^
「資本主義 (善) vs 共産主義 (悪)」 → 「資本主義 (大いに改善の余地あり。とりわけ、貨幣のあり方・政府発行貨幣による中央銀行の無用化、等々)) vs 共産主義 (“人間性の限界または特性”〔たとえば原子力ムラの住人に共通して見られるような〕を看過した社会思想の不良品、カルトあるいは全体主義の別働隊にすぎないシロモノ)」
「ウヨク (善) vs サヨク (悪)」 → 「ウヨク (日本教原理主義者の再台頭はその思想的硬直性と直進性により中長期的に自らを進退窮まる処に追い込む可能性大のため問題あり) vs サヨク (言論の自由の確保のために必要な存在)」
「保守 (善) vs 革新 (悪)」 → 「保守 (日本教穏健派・世俗派は善) vs 革新 (社会的イノベーションために必要。人間も社会も「生き物」であるから変化を先取りして柔軟に対応する意欲とパワー自体は必要不可欠)」
「アメリカ (善) vs 中国 (悪) 」 → 「アメリカ (半善半悪^^; なんせ、われらが宗主国にして双頭の鷲 だからね) vs 中国 (現在の中共王朝の存在は毛沢東のいわゆる最終戦争希求型の永続的好戦性 を称揚するゆえに悪) 」
「自民 (善) vs 民主 (悪)」 → 「自民 (少善多悪。利権軸と懐古趣味オンリーの判断&行動指針はなんとかならんかい) vs 民主 (極悪。売国かつ亡国の徒にして他に能がない)」
「安倍政権 (善) vs マスコミ (悪)」 → 「安倍政権 (経済政策・対中韓対応は善、他は悪の範疇^^;) vs マスコミ (極悪・売国亡国の徒。誑かしを己の力と誤信しそれに嬉々として溺れる愚者の集まり)」
あと、その「ある人」によれば、「官僚」がスッポリとぬけてますね、とのこと。ふむふむ・・・ライトウィングの思惟体系のなかでは、「官僚」というコクゾウ虫は善悪の対立構図を引き起こさない存在のようですな・・・ちょっとした発見でした。
で、その人が続けて言うには、自分的には、「“99%”サイドの国民(善) vs 官僚(勧善懲悪すべきな現状劣善優悪の徒)」でしょ~、ちゃいます?とのこと。うーむ、む・・・
2014-05-16
◎ なぜ韓国は「謝罪せよ」を繰り返すのか 「一度謝ると両者の正邪、優劣、上下が固定化。下げる頭はどんどん低くならなければなりません」 (2chまとめ「厳選!韓国情報」より) …… 「ディスカウントジャパンに狂奔する国とそれへの応戦情況 <11>」の同日付け記事の再掲
―― 一企業による人災事故に対し「無限の責任を感じる 」と言って国民に謝罪した国家元首のこのことばの“重み”は、たとえば、ずいぶん前のことだけど、「人命は地球よりも重い」と言って超法規的措置をとった当時のわが国の首相のこの“名言”と、どちらのほうが重量があるのだろう・・・? 天秤皿に載せてみたくなった。もし釣り合うようなら、すくなくとも空気醸成のための「空体語」 に関しては、かの国が起源であると認めてやっても、いいかもしれない。
この空体語のもつ本質的なことばの“軽み”(=問題〔実体語〕の粉飾を役割とするレトリックな性質)によってこれをなるべく巨大に膨らませ、それによって、空体語に直で対置する実体語(=政治経済的利得または損失に直結する喫緊の問題)の中長期的な放置(=現象的には、利権を貪って行け行けドンドンが常態化する)がもたらす社会矛盾の増大化傾向からみて、〔→〕
かの国の弄する「責任」の“空体語的軽み”に、この国がまたしても忍耐づよく(≒バカ丸出しでにぎにぎしく)つき合うとしても、あちらサイドとしては、“謝罪”を要求したい相手(この場合日本国)が存在するかぎり、そのことばのもつ本来的な“軽み”ゆえに、これまでそうであったようにこれからもなお、折に触れ幾度も蒸し返しながら、千年どころか万年も億兆年も、彼らの要求する(過去の一連の事跡に対する)“謝罪”とそれに伴う応分の賠償を“せびり続ける”のは、まちがいない。
2014-05-19
◎ 光厳天皇の志が靖国に (ブログ「心に青雲」より)
―― うーむ、ブログ主さまは武道(空手)をたしなまれるだけあって、基本スタンスは日本教武士(もののふ)派に位置するお方のようですね^^: (全面的に組するものではないですが)そのお気持ちはよく分かります^^
◎ 「憲法24条」に潜む共産主義思想 (ブログ「多摩湖畔日誌」より)
―― 男女同権と核家族を規定した条項ですか。私はこれもまた欧米型民主主義の中核的思想を反映したものだとばかり思っていましたが・・・。すくなくとも、この国の明治から戦前までの国家主義思想の基幹をなした「家族制度」 とは対極をなすのですかね。
ま、自民党が憲法改正により目指しているのは、この復古調の家族観であり大家族制度の復活であるのでしょうが、この延長線上に、かつての国粋主義的富国強兵国家の復活を期するものでもある、とも、いえそうですね。
ということでここからは、さらに妄論を展開^^; 題して『神と空体語(試論) 』
戦後民主主義の系譜にあると思われる“自虐”に耽りすぎると、南部半島国からは無制限謝罪だけでなくマスコミ制覇や外国人参政とかで内側から乗っ取をかけられ、西隣大陸国からは、慢性的な平和ボケにつけ込んで列島線などを線引きされ黙って放置しておけば武力ですり潰されてゆく運命にある。
そこで“ふつうの国” に戻ろうとすると、こんどは舵を右にきり過ぎ、前世紀の前半以前にまで先祖がえりしたい政治権力者らに絡めとられてしまう。・・・日本国というこの“天秤”は左右均等な平行バランスをとるのが、今もってヘタなようで・・・。あいもかわらず、「広く会議を起こし万機“空体語”に決すべし」 といったところか。
・・・ということで、さいきん盛んにリンクを張りはじめたので、あらためて数年ぶりに拾い読みしてみたら、私のイメージしている“日本教”は、こちらの元祖「日本教」と微妙なズレ(乖離というべきか^^;)が、生じしているのに気づきました。
というのもベンダサン氏の論考中で、
「『日本人は全員が無神論者である』が、『日本教は宗教でありうる』のは、一言にしていえば、日本教では『人間は被造物』でなく『神が被造物』であり、かつ『空名』だからです。そこで必要に応じていつで『神 という空名』を創出できます」
とありますが、ここにいう「空名」がいまの私には、以前個人的に書き留めた“神の気配 ”という“何かそこに有るもの”に置き換わっているように思います。
これをさらに敷衍すれば、『日本人は全員が無神論者である』との断定も、(いまの)私としては、いや、必ずしもそうとは言えない、という結論になってきます。その神の“気配”は、ロゴスに象られた唯一絶対人格神を仄めかすものではないし、ブラフマン&アートマンのような観念的なイメージすらもたないし(それゆえに「必要に応じて八百万の神々を創出できる」というのもうなずけますが)、〔→〕
しかしたとえば、由緒ある神社や能を観たときにたしかにそこに「神気」を感じる。感じないではおれない。この凛と張りつめた澄明な心境は、“無視論”的心情から湧きだすものでは、とうていないだろう。やはり、ロゴス(ことば=経典)によらない、具象の神のイメージ(偶像)にすらよらない、一見プリミティブでありながらダイレクトな、まさにそこに有るもの――あえて言葉にするなら、とりあえず“気配”としか言いようのない何か。それは超越的なものであると同時に肌身に染み入るきわめて親密なもの――を神と感じ、観じる。
この「神」は、空名というより無記名の神 。それゆえ汎神論的スタイルを呈し、時に、八百万の神々の体裁をとり、富士山や桜花やはては敷島なる日本列島までおしなべた数々の有形の御神体に宿るけれども、あえて神の“本体”に肉薄するとすれば、たとえばそれは、五重塔の心柱の体現する“心”のイメージに、おそらくはもっとも近いだろう・・・バランスをとって有らしめるもの。
もとよりそこには、直接垣間見れるような人格性も唯一性も絶対性もないけれど、実体的にそこに有るものとして感じ、観じるからこそ、たんに荒ぶる自然をなだめたり畏怖の対象として崇拝するだけではなく、自然と調和しながら作り上げた里山や里海を鎮守するものとして、あるいは四季対応のキャンペーン型稲作を寿ぐものとして、あるいは五重塔の地震倒壊を防ぐ心柱として、あるいは味噌や醤油や清酒の麹として、さまざまな恩恵をもたらしてくれること、
すなわち、自然から生活環境から“生かされている”ということへの感謝の念を届けるために、いわば汎神論風に偶像化したそれら(自然・生活環境由来)の神々に対して、もしくは最寄りの神社に鎮座まします多彩な御神体に祈りを込めながら、人びとは日々の信仰のなかで、これらの神々とともに生きてきた。
その意味で、一見、素朴な自然崇拝に見られるようなアニミズム的外観を呈しながらも、その信仰心の発露において、つまり、超越的存在として抽象化された実在性に対する尊崇において、一線を画している。
この実在性はより具体的にはなにを意味するかというと、天秤の支点であるとされる「人間」が、地上を生身で活動する肉体的人間ではなく、人間のなかに見出される神性〔空体語性向〕と獣性〔実体語性向〕のうち、神性の根本をなす言霊(ロゴス〔言〕とニューマ〔霊性=“神の気配”の源〕が分かちがたく結びついた“いま・ここに・あるもの”。その神性は自然や宇宙とわかちがたく結びついているミクロコスモス的広がりももっている)が支点それ自体であるが、「人間」はさしずめ、神性と獣性という 二極点性 を個性に応じたスペクトル分布により存在内部に併せもつ天秤竿に擬せられる。
しかもそのことは多くの世俗的な日本教徒には知られていないが――というのも、「人間」についての二極点性を見ようとしない(=不快感と恐怖心により内なる獣性を黙殺する)ため、漠然と「人間」を天秤の支点に据えることが一般的であり、それゆえに“世俗的”であるのだが、その限りにおいて、ベンダサンのいわゆる「支点=人間」は‘正しい’――日本教にはこのような、いわば無記名の神が(おそらくは古来から)実在していることから、日本教徒である日本人はけっして無視論者ではない、といえる。
ちなみに、この「人間」は、三島由紀夫氏の言うところの「人間性」で置き換えることができ、この概念は(氏によれば)厳密にはHumanityとHuman-natureに区分されるが、前者は この拙論でいうところの神性を標榜する人間性の要素であり、後者はもっぱら肉体の発生(生殖)と維持(延命)に没頭するところの獣性に属する要素と言ってもいいだろう。
これを天秤竿において図式的にイメージするなら、「人間」=「人間性」のうちHumanityは竿の中心部分に向けてその密度を増し、竿の中心である支点において神性に取って代わる。いっぽう Human-nature は 肉体の発生(生殖。性欲の発動を契機とする)と維持(延命。裏を返せば死の恐怖)、つまりエロスとタナトスとに大別されるが、これらは 左右に明確に分離しているわけではなく、竿を組成するものとして渾然一体となって分かちがたく結びついている、と見るのが至当だろう。
ちなみにこの「人間」は、三島由紀夫氏の言うところの「人間=Humanity」と「人間性=Human-nature」という“対比的な人間観”として置き換えることができる(と私は考える)。その際、この人間観における二様の概念のうち、前者はこの拙論でいうところの「神性」を標榜する人間性の要素であり、後者はもっぱら肉体の発生(生殖)と維持(延命)に没頭するところの「獣性」に属する要素と言ってもいいだろう。
これを天秤竿において図式的にイメージするなら、「人間」すなわち上記ニ様の人間観のうち 「人間=Humanity」は竿の中心部分に向けてその密度を増し、竿の中心である支点において「神性」に取って代わる。
いっぽう「人間性=Human-nature」 は 肉体の発生(生殖。性欲の発動を契機とする)と維持(延命。裏を返せば死の恐怖)、つまり「エロス」と「タナトス」とに大別されるが、これらは 左右に明確に分離しているわけではなく、竿を組成するものとして渾然一体となって分かちがたく結びついている、と見るのが至当だろう。
(しかしながら、人間存在における二極点性の観点から、竿(人間)の両端に着目する場合は、それぞれエロスとタナトスに振り分けて観ずるのも、近似的手法にとどまりはするが、許されるだろう。そしてその場合に特徴的なのは、竿の両端において暴力性と逆情性が最大級に濃縮され、性的暴走と決死の戦闘行為がいわば「獣性」という形で発露することである。)
なお、日本教には、その外形的特徴から、圧倒的多数の穏健派と欧米文化に通じた世俗派、そして、勇敢と潔さ(自死を含む)と愛国をつよく意識する武士(もののふ)派に大別されるが、穏健派には預言者に位置づけられる人物がいて、その筆頭は聖徳太子。近年では二宮尊徳が挙げられる。また、 武士(もののふ)派は、伝統的な八百万の神々への祈祷よりも、鎌倉時代以降に彫琢された武士道(とりわけ「葉隠れの思想」)をその拠って立つ精神的基盤として用い、これへの自己同化を図ることで、神性への全身全霊の拝跪を旨としている。
そして、この心的態度を明確に言行一致により示したのがかの吉田松陰であり、彼は日本教武士派における突出した預言者であって、この人物の創案し口伝し行動した数々の事蹟が、日本教武士派をして原理主義的な矯激さを与える素地ともなっている。彼が種をまいたこの素地は、あの大日本帝国陸海軍(略して日帝)にも濃密に承継されている。このことには、明治維新において長州勢が預言者吉田松陰の影響下で多大の貢献をし、明治政府においてもひろくふかく影響力をもったことが、大きな要因となっている。
・・・えーっと、ちょっと思いつきなオートライティングに走っちゃいましたが、もちろんイザヤ・ベンダサンこと山本七平さんが提唱した「日本教」はなんのオーソライズもされていない宗教的概念ですが、ワタシ的にはこれを基礎的ツールとして使うと、 なんかこんな感じ(たとえば物理学理論における解析&記述ツールとしての微積分のようなもの^^) で、日本人の宗教観のエッセンスについて、妄念をすくすくと展開できるので重宝しています^^: とくことで、せっかくなので、もちょっと、いや気のすむまで^^;この路線を走ってみようかな、と思います(笑)
2014-05-20
◎ 慰安婦問題の処方箋 (ブログ「ねずさんの ひとりごと」より) …… 「ディスカウントジャパンに狂奔する国とそれへの応戦情況 <11>」の同日付け記事の再掲
―― 完全同意というわけではないですが、ま、個人的には、傾聴するには値するかと・・・。最終的に同意できない理由は・・・日本以上に強烈な空気支配(言い換えれば情緒支配、儒教の伝統がそうさせるのか?)の国なので、千年たっても“謝罪”+“賠償”を求め続けることは、国民レベルで“已むことは無い”でしょう。
このような、まさにウ○ナラ・ファンタジーと言われる所以の、なにごとにつけ絶対的空気支配の――ほんらい実体語(利権や利得〔不作為=手抜きも含む〕または隠しておきたい欠陥や汚点など)を隠蔽するための空体語 (いわゆる建前やスローガンまたは根拠・証拠のない主張・要求など)が現実世界を隈なく覆い尽くすような――国柄おいては、「(新たに追加の賠償金〔=実体語〕もらったんで)もう謝罪は求めることはないよ」なんて口約束は、そう遠くない将来、あっさりと反故にされる運命にあります。その旨を書面にしたためたところで、あれやこれやと“新事実”〔=空体語〕をもちだして突っかかってくるので、同じでしょう。
2014-05-24
きのうふと見かけたこちら↓の「日本いいねえ!」タイプの海外反応まとめ。画像も選び抜いた極美のものばかりで、なかなかいいですね^^
◎ 海外「日本って凄い!」 日本の古き良き風景の数々に外国人感動 (海外反応まとめ「【海外の反応】 パンドラの憂鬱」より)
日本人でもめったにお目にかかれない美しい景色の数々^^v BGMも、外国人うけを狙ったのか、しめやかな純日本風ではなくすこしビートをきかせた野性味を感じさせる曲。好評なようですが、たしかに、ベースが日本テイストなので、それほど違和感は感じない。
以前備忘したとこの種のとある動画情報のBGMは明らかに中華風味だったので(苦笑)、それより格段にグーですね^^♪
そうそう、上掲記事にリンクの「PART2 」に跳んだら、ほかにも英文タイトルの「日本の伝統美紹介動画」が満載ですね。政府のPR動画ではなさそうだし、世界にはけっこうコアなファンがいるのかな・・・^^?
で、きょうは、この「日本はいいなあ!」のまとめ記事をビボるぞー!とはりきっていたら、井口博士もアイラブ日本の記事だったので、併せて備忘させていただきました^^
◎ アイラブとてつもない日本:「嫌日家から親日家へ」の道へまっしぐらの外人たち (ブログ「Kazumoto Iguchi's blog」より)
あと、日本教穏健派の牧師か宣教師のような立ち回りをされている^^:ねずさんの最新記事も、アイラブ日本の心情をかきたててくれるものだったので、併せて備忘^^v
◎ ブロードウェイのサムライ (ブログ「ねずさんの ひとりごと」より)
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