(※)「◇~★~日本式NWOについて〔1〕―その世界浸透は夢のまた夢・・・か?」はこちら。
「◇~★~日本式NWOについて〔2〕―その世界浸透を模索する糧として I 」はこちら。
「◇~★~日本式NWOについて〔2〕―その世界浸透を模索する糧として II」はこちら。
「◇~★~日本式NWOについて〔2〕―その世界浸透を模索する糧として III」はこちら。
2014-12-10
■ その他3↓
◎ 日米とも、政府が真に怖れているのは、テロリストではなく、一般の国民である。:兵頭正俊氏 | 晴耕雨読
◎ あなたを豊かにさせないシステムが発動していることを知れ (ブログ「DARKNESS」より)
◎ WJFプロジェクト 森の奥に潜む力
―― <以下抜粋>
神社のもつ、言葉や理屈を超えた感化力という、鎮守の森の奥に潜む「非政治の力」が、合理化を求めて神社合祀を推し進めた「政治の力」によって脆弱化される危機感を南方熊楠は訴えた(~中略~)
「政治」は、日本を救わない代わりに、日本人を支える「非政治」の深い根に致命傷を与えることはできないのではないのか。
「政治」がもたらす傷は、根底に潜む「非政治」の力によって修復されていくのではないか。
<抜粋了>
うーん、「政治」という概念に対する「非政治」という概念を措定し、後者が前者を「圧倒」するという発想のが、雰囲気的にはなんとなくわかったような気にならくなくもないけれど、やっぱりけっきょくのところ、具体的なイメージがわかないなあ。。。
ねずさん言うところの「シラス」と「ウシハク」 の二項対立的な対比の図式のほうが、政治的実効性(現実味)という点が伺われるので、極めてわかりやすい。
これから察するに、「シラス」は、本記事にいう「非政治」の領域を多分に含んでいると思われるけれど、あくまで「政治」の範疇(すなわち統治行為)に属すると私は‘理会’することにします。そう捉えることで、「非政治が政治を圧倒」するという意味も、なんとなく腑に墜ち転がってきます。コトリと。
◎ 「世の中は絶対に見通せない」ことを悟った後にすべきこと (ブログ「DARKNESS」より)
2014-12-13
○ 【宇宙】ビッグバンによって、時間が逆方向に流れる「鏡の宇宙」が、私たちの宇宙と同時に誕生した - 政経ch
―― でないと、人間原理に基づいた私たちの棲むこの宇宙は成立しないだろう。これもまた、物質と非物資からなる人間存在を基礎とした二極点性原理 を満たしている、はず。
↓↑
◎ 衝撃!?脳細胞と宇宙は激似していた!! “宇宙の謎” まとめ - NAVER まとめ
2014-12-16
■ 中共中国関連 <一部転載>
◎ 外国人「中国兵と日本兵の質に差がある」←( `ハ´)「こういう謎理論ってなんなの?」 【中国の反応】 | ( `ハ´)中国の反応ブログ
旧日本軍(陸軍)の場合、局地戦で負けたり勝ち目がなくても、捕虜になって生き延びることなく、斬り込みや万歳突撃等の玉砕戦法を敢行して自決するのが決まりだった ことが“つよさ”の根源だったように思われる。それが兵隊としての質に違いにもなったのではないだろうか。
しかし、自決の覚悟をもって戦地に臨む大和魂は、米軍の圧倒的な火力とタフで怜悧な作戦展開に対しては、精神主義的鼓吹をジリ貧の戦場に虚しく響かせるだけで、最終的に打ち勝つことはなかった。これ(精神主義〔+大組織病〕 の敗北)は戦後世代のよい教訓となっていると思う。
要するに、結論的に言えば、日本人(大和民族)は、世界を股にかけた大戦争(の単独遂行)には民族気質的に向いていない、と私には思われる。つまり見方を変えれば、一見好戦的に見える大和魂はもともと、日本教の最大御神体ともいえる敷島(四季の島日ノ本)を護持・護国する防人の防衛的(≠覇権的)愛国心を大和民族として確固たらしめるために称揚され、民族的気概(誇りの源)として浸潤沈着したと思うのである。
2014-12-18
◎ ねずさんの ひとりごと 日本人の�精神的バビロニア捕囚�からの解放を
◎ 政策意思決定と"公共マフィア"について: 極東ブログ
―― “公共マフィア”という造語、おもしろいですね。「御用学者」はその代表例でいいのかな。その(新)概念、じっくり咀嚼させていただきますです^^v
2014-12-20
「 頭椎(くぶつつ)い 石椎(いしつつ)い持ち 撃ちてし止まむ 」
(※)今日のエントリ・タイトルは、『神武天皇東征の歌謡(久米歌)』〔『古事記』第九番目から第十四番目までの和歌(この一連の歌謡を『日本書紀』では「久米歌」と呼ぶとのこと)。出典は、『古事記歌謡』 全訳註 大久保正 (講談社学術文庫)〕より、第十番目の歌謡の第五行目(出典による)を慎んで拝借。
今日のエントリータイトル。出ました。「撃ちてし止まむ」。久米歌にあったんですね。あと3回出てきます。日帝拡張主義時代にももてはやされたこの言葉。出典の語釈を参考にすると、「(勇猛果敢な久米軍団よ、敵なる土雲〔土蜘蛛〕八十建(やそたける)を)撃ち滅ぼしてくれ」という意味のようですね。出典によると久米歌は日本古代の戦闘歌だそうで、たしかに、初期大和朝廷 (ヤマト王権 )の勢力拡大の一場面をけっこうリアルに、生き活きと描いています^^
◎ 帝国海軍、美辞麗句好きの背後 - 心に青雲
―― コアな保守を自認する人にもそんな傾向がありますよね。自己陶酔的な歴史観・国家観、そして武闘心と死が分かちがたく結びついた〈大和魂〉〔※〕の憧憬的賛美称揚の傾向が。
しかしながら、〈大和魂〉がそこまで熱く膨れ上がるとさらなる膨張を(先の日帝時代のようにいわば“空気”力学的に)止めようがなくなって、南部半島国の火病 よりも性質(たち)が悪くなるので、あたかも理性がリビドーを押さえ込んでいるように、[→]
〈 大和心〉 がその懐深くに仕舞いこんでいないといけないわけですが、〈 中華〉 や〈 恨〉 でもって外からヅカヅカドンドンひっきりなしに叩かれ突きまくられれば、そりゃあ耐え難きを耐えるにも限度というものがあって、〈大和魂〉本来の防人的防御(=撃退)モードにはいります わなあ。
ま、それを狙っている別の筋もあるようですが・・・。ということで、撃ちてし止まん。
〔※〕「大和魂」なる語そのもの は、江戸時代の賀茂真淵において明確に“日本の古人のまっすぐで清らかな心”として意識・称揚され、かの吉田松陰により明治以降おいて社会的に普遍化された国民的理念となったが、ここでは「古代日本人の純粋性」といった、人間性の美徳的側面を強調した一種の美化はさておくこととし、以上のように、やはり同時代(賀茂真淵の弟子の弟子本居宣長)により語義がほぼ明確化された「大和心」 に包摂される関係も含めて上記のように捉えることとしたい^^;
ちなみに、このような、国体に関する基本的な“用語”が、当の「国体」(国民体育大会ではない^^;)も含めて、どこか微妙に曖昧さを醸していて、それゆえに多義性を含みもつのは、やはり、日本の伝統文化がいわゆる「ロゴス 」――ここからあえて大胆に踏み込めば、ギリシャ哲学ベースのコアな神秘主義ともいえる^^;ダスカロス風の「ロゴス 」に依拠するのではなく、いわばβ波レベルでは不可知レベルにあるそれらの概念の“構造的連関”を、一種の気配(神の気配 ^^)として一挙に直把(=時空超越的に対象の本質を把捉)するからであろう。
なお、私はこれを(西洋哲学的ロゴス観から見た)“未熟”な精神性などとは思わない。むしろ、人間精神の多様性のひとつの顕現であろうと思う。
2014-12-24
2014-12-30
◎ ねずさんの ひとりごと 新しい世界秩序
◎ WJFプロジェクト グローバリズムと神道(1) …… 再備忘
◎ WJFプロジェクト グローバリズムと神道(2) …… 再備忘
◎ WJFプロジェクト グローバリズムと神道(3) …… 再備忘
◎ WJFプロジェクト グローバリズムと神道(4) …… 再備忘
◎ WJFプロジェクト グローバリズムと神道(5) …… 今回備忘
2014-12-31
ところで、今日のエントリ・タイトルに、久米歌二つめの「撃ちてし止まむ」がでてきましたが、これは文脈からその意を汲み取るに、そしてまた出典の現代語訳でもうかがえるように、「(久米軍団とともに敵を)やっつけてしまおう」という、先の初出のそれが久米軍団に対する打倒要請のニュアンスが強いのに対して、こちらとそれ以後の二句とも、神武天皇も共に戦闘に参加する姿勢がでていますね。
そういう意味では、「撃ちてし止まむ」は、純然たる戦闘鼓舞のフレーズとはいえますね。
先の日帝拡張主義時代にあって、大和魂が(大和心の護持に仕える役割を亡失かつ逸脱し)首輪を解かれた番犬のように、折にふれこの言葉を口走りながら、海外(海の外)へと猛然とダッシュしていったときの時代の気分が甦ります。
古代日本においてその言葉がリアルな戦闘の一場面を記述しているとしても、現代においてもなお神話のなかの尚武の心として残っているそのフレーズを、政治的・軍略的に利用しようとする国家運営上の危うさを、先の敗戦は数百万人の血を流した痛烈な教訓として後世に深く残したのではないでしょうか。
ただし、この個人的な思慮は、あたかも敷島と大陸で先の大戦終結時と立場が入れ替わったかのような、いま現在の極東軍事情勢の絵柄を眺めるときに、この国のこれからの防衛力強化を否定しているわけではありません(上述の「教訓」とは、あのような窮鼠猫を噛むの猪突猛進情態にはいることはまったくよろしくない、という趣意です)。